機械仕掛けの眠り姫

f:id:Kape:20200828225026p:plain

まささん(https://twitter.com/masaE50_)に書いていただきました。

 

恋愛は拷問あるいは外科手術によく似ている。
シャルル・ボードレール『火箭』

 

1日目

カレリア

 梅雨が来た。
 夏の始まりのようでいて、けれども気持ちのいいカラっとした暑さではなく、ジメジメした高湿度の中にいてはどうしても憂鬱な気分になってしまう。軽い気持ちでランダム戦に出撃したはずだったのだが、カレリアの沼地とこの湿度では今一乗り気になれない。空は薄暗く曇り、熱気と湿気が肌に滑りつき、嫌でも夏の到来を感じさせられていた。
 なんて、今日に限って単なる気候にそんな恨みがましい感想を抱くのは、ボトムマッチに放り込まれた事が嫌だっただけなのだが、こんな天気とマッチングでは文句の一つも言いたくなるというのものだ。
 さて……どうしたものだろうかと思い悩んでいるとこちらのチームのTOPが視界に入った。HTにしては少し小柄で長い砲身が特徴の、Obj277だ。Tier10としては悪くない戦車で期待できるかもしれない。もっとも車両で腕が決まるわけではないのだから今から期待し過ぎるというのもお門違いなんだが。なんにしろ我々ボトムTier8は彼女についていく他選択肢がないのである。彼女が撃破されたら敵のTOPに蹂躙されてしまうから、身を挺しても彼女を守るかして生かさなければならない。私たちの命、それに見合うだけの活躍を期待せざるを得ない。が、一見しただけでは長い長いご立派な130mm砲には優等マークの一つも見つけることはできなかった。……これは、ダメかもしれないな。そうすぐに落ち込んでしまうのはこのクソ暑い気候とぬめぬめしたマップのせいだと言い聞かせて、重い足取りで配置についた。30秒のカウントダウンが始まる。

  ……開始から10分が経過している。戦況は芳しくない。LTはお互いに中央で撃破され、MTは丘へ突撃し撃ち合い、自走砲に焼かれ、最早丘には私以外誰も残ってはいなかった。我らがObj277はTier9を相手に果敢に戦闘を繰り広げ一時はリードを広げるも、調子に乗って自慢の駆け足で突っ込むと途端にTDによって撃破されてしまった。Tier10という尊い犠牲のおかげでTDをスポット出来て撃破に至ったのだからアドバンテージは大きいのだろう。277は優秀だったがこちらのチームは他の戦車たちがダメダメだった。Tier8,9は惨敗。自走砲は何故かスポットされたりカウンターを食らったりして敵味方互いにいなくなり、私が突っ込んできた敵MTを撃破したのを最後に、戦場はとても静かなものへと変化していた。
 私はこのMTが最後だと思い込んでいたので、暫く放心状態で動かないでいたのだが不思議なことに試合が終わらない。敵がまだ残っている?編成表を見てみるととんでもないものがまだ残っていることに気づかされた。いや、私自身気づいていたのかもしれないがそれを隠していたのかもしれない。敵のTierTOPのMAUSがまだ一度もスポットされていなかった。ミニマップを穴が開くほど睨み付けても、MAUSの姿は見当たらない。ということは、MAUSは最初はベースで芋っていてこちらの枚数が少なくなってから、より敵がいなそうな方向へ向かって進軍している予測が立つ。
 非常にまずい。私はカレリアの丘上で考えていたが、どうやらそのような時間はこれぽっちも残されていないようだった。無傷のMAUSが進軍してきているのならば、ボトムの私に対抗できる術はない。金弾を使用したところで正面は抜けるものではないし第一フルHPのMAUSに勝つにはインファイトを仕掛け横にびったりと張り付くことだが、私自身、HPは800しか残っておらずあまり現実的ではない。MAUSなら私の正面どこ撃っても簡単に貫通させることが出来る。撃ち合いは良くない判断だ。
 ならば、勝利するためにはMAUSを避けてCAP勝負を仕掛ける以外ない。幸いにもMAUSは北側を遠回りでゆっくりと進軍してきているはずだから恐らく私の方がタッチダウン自体は早い。多分。そうと決まれば早速行動しなければ。私は急いで丘から中央の沼地へと滑り落ち、敵CAPを目指すことにした。
 ギャギャっと履帯が嫌な音を上げながら坂を下り、沼地へと踏み入れた。クソ暑いから、沼と言えど水を浴びれば少しは涼しくなるかなと思っていたが、生ぬるい泥水を被り車体が泥まみれになっただけで、不快指数が下がるどころか上がる一方だった。尤も今はMAUSより早くCAPに入れるかどうか泥を洗い流せるほどの冷や汗が溢れ出ている。間に合って欲しいと願う気持ちは履帯の回転数と共に一層増していく。
 沼地を抜けてスロープから頭を一つ出した瞬間、私の眼前に映ってはならない、そこにいるはずがないものを突きつけられた。六感が光りミニマップにその名前がポップする。"MAUS"と。最初から北側迂回していたり南側丘当て返しをしてはいなかったのだ。勝利を捨てて私が来るのをずっと待っていた。あからさまな動揺と、混乱と、戸惑いと絶望を織り交ぜて、私の前進は少しずつ崩れていく。
 まるでこの世の終わりのような表情を浮かべていた私だったが、状況を整理すると何かがおかしい。MAUSはこちらに発砲する様子はなく、砲塔は動かず砲身は下を向いたまま、まるでしょんぼりしているかのような態勢で動く様子がない。よくよく考えてみるとあれは出撃地点でそこから1ミリも動いた様子がそもそもなかった。
 なるほど、これはAFKだな。先ほどまで敗北を確信していた私であったが再度前進し始める。まさか今更動き始めないよな?緊張と、不審と、不安と恐怖の混ざった祈るような眼をMAUSに向けて横を通り過ぎとうとうCAPへとたどり着いた。......CAPの進む速度がひどく遅く感じる。しかし私の心配事は杞憂だったようで、無事に勝利へと至った。

 CAPを踏みながら考え事をしていた。AFKのMAUSを撃破しても良かったのだが、弾薬費もかかるし、撃たれたら気づいて動き出すかもしれない。なによりも何らかの重大な理由があってああしている無抵抗な彼女を一方的に撃つ気にはなれなかった。

 試合が終わった後、皆それぞれ撤収をし始めたざわつきがまるで聞こえていないような佇まいのまま、マウスはこれっぽっちも私が横を素通りした場所から動いてはいなかった。まさか空気が腐り落ちるような気候で死んでしまったのだろうか 。まさかね。

「MAUS、起きて!もう試合は終わってみんな帰り始めてるよ。起きて!」
 いくら声をかけても、車体をゆすっても全く反応が無いので一発撃ってやろうかと思い出したころ。その眠れる主から返事があった。
「うあ”……えぇ?」
なんてうめき声なのだろうか。戦車のエンジンの方がまだいい音を出すだろう。
「もうみんな帰っちゃったよ。今日の試合、あなたずっと眠っていたのよ。あんだけドンガバンガ撃ち合いしていてもちっとも起きやしないから死んだんじゃないかって心配して」
「あなた……あなたIS-3じゃない⁉私はあなたを知っているわ!あなたをよく知っているのだわ!」
「え、えぇ……いや私のことより試合……」

 なんだか話がかみ合あわないし、何より試合をすっぽかしたことなんてこれっぽっちも気にしてはいないような雰囲気で。とにかく何か変だ。そう懊悩していると

 「ここはカレリアね!さっきは私、コマリンへ行ってきたの。そんなに活躍はできなかったのだけれども、今度は頑張るわ!あなたは私の味方なのかしら。それにしてはあなた以外の戦車が見当たらないのだけれども、これはどういうことかしら。ああ言わないで分かるわ、みんな先に行ってしまったのね。私遅いからいつも最後尾なの、知ってるわ。試合が始まっているのにまだベースに重戦車が一台いる、それが見てていたたまれなくなったから思わずあなたは帰ってきたのね。優しいのね」
「だからさっきも言ったじゃないか。もう試合は終わったよ。みんなはそれぞれガレージに撤収した。残っているのは私たちだけ。あなたは試合中ずっと眠っていて、味方は呆れて帰っちゃったよ。私たちももうガレージに帰ろうよ」
「えぇ⁉そうだったの……ごめんなさい、私眠っちゃってたのね。でも次は頑張るわ!貴女も一緒に頑張りましょう!プラトーンを組みましょう!そうすれば次は一緒に戦えるわ。もし眠っていてもあなたが起こしてくれるのでしょう?なら安心だわ!」

 どうして私がAFKと一緒にプラトーンを組まなければならないとか、そもそもプラトーンはTier格差があると今は組めないとか、もう疲れてへとへとだからとにかくガレージに帰りたいとか、かといって無視するのも可哀そうだとか、色々な感情が浮かんできて速く眠りたくなってきた私は面倒になりつい快い返事をしてしまった。

「わかったわかった。今日はもう帰ろう。色々精神力を使わされて疲れた」
「約束よ!明日は私とプラトーンを組むの!」

 何故私がこんな事に付き合わなきゃならないんだ。そもそも格差プラは今は組めないだろうに。というかこの女、さっきコマリンへ行ってきたと言っていたな。最早消されたマップを思い出すとは古い夢を見ていたようだ。それを聞いて私も昔を思い出し懐かしい気持ちになってしまった。思えばあの頃は格差プラもコマリンに、もっと変なマップやマッチングがあったっけ……。
 そんな郷愁に心を浸しながら未だに寝ぼけたままの彼女と一緒に、ゆっくりと帰路へと動き出した。その時、ふとMAUSの頭上の名前が視界に入った。
 本来Mausとだけ表記されているはずの所には、今のバージョンより遥か昔の車両HD化以前のものである "MAUS  0.8.11" と表示されていた。成程、それなら彼女が格差プラが出来ないことやコマリンがまだあると信じるのも無理はない。訳の分からない空目をする程にどうやら私は疲れていたいらしく、その日は深く眠れた。

 

7/26
2日目

 昨日は敵のTierTopがAFKのおこぼれのような逆転勝ちを手中にした達成感からか、よく眠れた。ベットで体を起こし、ぐいーっと砲身を伸ばし、脳がゆっくりと深い睡眠から覚醒していく。それにしても昨日の勝利は心が躍るように気持ちがよかった。一日たった今でも思い出すと鼓動が速まるのを感じる。今まで何万戦もしてきた中でも5本の中に入る程の接戦だった。それを私が最後に決めたんだ。ああいう試合があるとまた次の試合も頑張ろうと、無尽蔵のやる気が湧いてきた。さぁカーテンを開け、最高の一日を始めよう。

 ベットから降りてカーテンを開けようと窓際まで行く途中で、自分のガレージがいつもと違う違和感を覚えた。が、まだ寝起きのぼんやりした脳みそではそれを観測することが出来ず、それに気づいたのは実際にそれ自体に躓いてからだった。

(何かにぶつかった……おかしい……部屋は綺麗にしていたはずだけれども……)
 そう不思議に思いながら視線を躓いた物体に目を向けると足元にはマウスが寝転がっている……。マウス?なぜ彼女が私のガレージで寝ているんだ?
 可愛い寝息をスピースピーとたてながら地べたに寝転がっている。状況が理解できずに3秒ほどその場にまるでこのガレージだけ時が止まったような中で、立ち尽くしていた。カフェインを摂取していないのに、薬物の何倍の速度で脳が急速に覚醒していく。……何故マウスが私のガレージにいて、あまつさえ寝ているのか理解できなかったが、ただ一つ理解できたことは、どうやら私の最高の一日はすでに死んでいるようだった。
 まずは状況を整理するには彼女をたたき起こして聞いてみるほかない。カーテンを動揺したままの心で目一杯力を入れてジャっと開けた。太陽の日の光が部屋に差し込んで、明るく照らす。どうやら日光を浴びるとセロトニンという物質が分泌されて精神の安定や安心感、平常心などの効果をもたらす脳内物質の分泌が促されるそうだ。何より長い睡眠開けに浴びるのは一日が始まるようなスイッチが入ったような気持ちになりに気分が良い。
「う゛あ゛……」

 そんな私の朝の気分を妨害してきた原因の張本人が後ろ側からうめき声をあげる。

「マウス起きろ!朝だよ朝!とにかく起きろ!あなたには聞きたいことが山ほどあるんだ」
 彼女の体を砲身でガンガン叩きつけた。
「あ゛あ゛……分かったから起きるから!砲身を私に叩きつけるのを止めて欲しいのだわ!体に響いて朝から頭が痛くなるのよ!」
 朝から頭が痛くなるのはこちらのセリフだ。

「起きたのならやめてあげる。私は食堂に行って朝ごはんをとって来るね。それまでに目と脳を覚ましておくように。あと部屋の中は弄らないでよ!」
 朝からイレギュラーが発生したが、私の一日のルーティンを乱すわけにはいかない。寧ろイレギュラーがあるからこそ疎かにしてはならないのだ。これによって私の心はまだ平穏に保たれている。 
 食堂から朝食のトーストとコーヒーを二人分持ってきて、それを小さなテーブルに置いた。彼女と一緒に食べる。細かいことは食べながら聞くことにしよう。昨日頑張ったせいかお腹が空いた。

 今日も程よく焼けたトーストにバターを塗り頬張る。コーヒーも酸味と苦みのバランスが良いWGブレンドが鼻腔と舌に広がる。

「あなたとても美味しそうに食べるのね」
「……それであなたは何故私の部屋で寝ていたの?昨日は疲れていてあまり記憶がないのだけれども、私は自分のガレージには一人で帰ってきたことまでは覚えている。間違いなく私は一人で寝た。何故あなたがこうしてここにいるのか説明してほしい」
 人が美味しくトーストを食べている姿をいちいち言わなくていいものを。私はそれほどまでに表情に出ていたのだろうか。昨日の達成感からか、いつもと変わらないはずのトーストが美味しかったのは事実なので図星をつかれ少しイラっとしてつい厳しい口調で問いただした。
「あら、確かにこのトースト美味しいわ。あなたが美味しそうに食べる訳も分かるわ。コーヒーも香りが良ければ味も良いのね。こっちの食べ物は美味しいのかしら」
 こいつは会話をする気があるのだろうか。
「それはね、パンはただのダブルソフトなのだけれども、バターはマリノフカ農場で生産されたものだけを使っていて、コーヒーはWGブレンドを食堂で豆を挽いて淹れてくれるの。美味しいでしょ!……で、それは置いといて、なんで私の部屋で寝ていたの」
 彼女が私が美味しそうに食べると言っていた意味が今分かった。マウスも美味しそうにもしゃもしゃとパンを食べている、その表情が嬉しそうに微笑んでいてそれが漏れて伝わってくるのだ。トーストを食べ終わった後に、コーヒーを飲みながら彼女は昨日の出来事を話してくれた。

「あなたとロビーに一緒に帰ってきた後別れたとこまでは良かったのよ。でも、帰りながら周りを見ていて気付いたのだけれども、何か私の知っているロビーやガレージとは雰囲気が違ったの。私のガレージを探しても建物が改築されたようで、何もかもが知っているはずなのに、まるで知らない場所みたいでなんだかだんだん怖くなって……」
「それで私のガレージに忍び込んだというわけ」
「えぇ……建物が違うから自分のガレージの場所が分からなくなって、ほかに行き場がなかったから。それよりも私の知っている世界じゃないようで怖くて逃げだしたくなっちゃったのだけれども、逃げ先なんてなかったから……」
「私のガレージにたどり着いたと」
「外で眠るのは嫌だわ。だからあなたのガレージを見つけた時て起こさないように静かに入ったら安心してしまってそのまま寝てしまったのだわ……」
 どうやら私は迷子のデカネズミに懐かれてしまっているようだった。
 しかしながら彼女に隠し事はないようで、本当に自分のガレージを見つけられなければ、もしかしたら、知らない世界なのかもしれない。相変わらずMaus 0.8.11の表記はハッキリと示している。
 だが私の部屋に置いておいても、この部屋は私のための部屋で2人分の生活スペースはない。つまりはせまいのだ。彼女のガレージを探す必要があるが……そもそも彼女は何者なのかを探らなければ。何故私が世話係のようなことをしなければならいのか、タスクが増え朝から気が重い。

「はぁ……とりあえず昨晩の状況は把握。今日はあなたのガレージを探しに行こう。もしかしたらあなたの言う通り、ここはあなたの知らない世界なのかもしれない。私としても、もしそんな世界で一人だと心細くて泣いてしまいそうだからしばらくは付き合ってあげる。野垂れ死にされても目覚めが悪いからね」
「ほんと!?ありがとうなのだわ!」
「ガレージが見つかるまでだからね。それまでは私の部屋を使ってもいいけれど、見ての通り一人用のスペースしかないから狭いよ」
 さて考えなしに置いておく宣言をしてしまったけれども、どうしたものだろうか。ノープランのまま返事をしてしまったが、恐らくガレージぐらいすぐ見つかるだろう。サポートにいってIDを検索すればすぐ出てくるはずだ。
 その時はそれ程深刻に考えてはいなかったが、数時間後の私はこの判断を恨むようになった。
「食器片付けてくるね。食堂から帰ってきたら出かけよう。歯を磨いておいてね」
「私、自分の歯ブラシ持ってないわ」
「……私の予備をあげる」
 しばらくは出費が増えるな。そう思いながら2人分の食器を持って重い腰を上げると部屋を出た。
 

7/27
「おはよう、オールドレディ」
「やぁ、オールドレディ。今日はどこの戦線に?」
「こないだはあなたのおかげで助かったよ、オールドレディ。今度お礼をさせてくれ」
 ロビーへ向かう途中で戦友たちに声をかけられる。長いこと生きているとこの兵舎の大体の奴らとは一緒の戦場になるので顔も覚えれば、戦いもした。私が知り合いと軽い挨拶を交わしながら廊下を歩いている3歩後ろをマウスが付いて来ている。
「沢山の知り合いがいるのね。それにしてもあなたは何故オールドレディと呼ばれているのかしら。私気になるわ。だってあなたはIS-3でしょ?」
「あぁそれはね、別に隠すようなことでもなくて、私が8年前からずっとIS-3のままでいて気が付いたらそう呼ばれるようになってしまっただけだよ。8年間、次のTierに進まずに同じ車両であり続けて。ただそれだけ」
 私が何故そのように呼ばれるのか、大した理由ではないのだが、私がそう呼ばれていると知った新しくできた知り合いは大体同じような質問を返してくる。何故次のTierに進まないのか、と。
 理由なんて本当に何もなくて、ただこの車体を気に入っているから。それだけで、8年間ダラダラと過ごしているうちに、周りの環境が、世間が、変化していつの間にかTier10に進むのが当たり前のような風潮になり取り残されてしまった。私自身、次のTierに対する興味が全く湧いてこないのだ。クレジットを稼ぐのも、戦闘をするのも、IS-3で完結しているような気がしてわざわざ高いクレジットを払ってT-10になる気がしないだけで。重い理由とかそうしなければならなかった理由は特にない。そんなに同じ戦車であり続けることが珍しいのだろうか。
 また同じようにその質問が来たら答えなければならないと考え始めたら、面倒くさくなってきた。もう何度聞かれたか30を超えたあたりから数えるのはやめた。

「好きなのね、その車体。だってそうでもないと8年もそのままでいることなんて耐えられないわ。お気に入りなのね、その車体。居心地がいいのでしょ、足回りとか主砲とか装甲とか。誇りなのね、その車体。あなたがIS-3に出会えたことが羨ましいわ」
「……随分と小っ恥ずかしいこというんだな。でもそう言ってくれたのはあなたが初めて。そう大好きなのこの車体。まるでぬるま湯につかっているように気持ちが良くて気が緩むから次のTierに進むなんて考えに至らない」
「私は、7も8も9もとても辛かったから早く10になることしか考えていなかったわ。10になれば今までの苦痛も苦労も全て報われるようになるって信じて疑わなかった。でも……たどり着いた所は逃げ場が無くなっただけで、世界が変わるわけではなかったわ。10になるまでに自分に合った車体を見つけるのが世界の仕組みだと気づいた頃にはすべてが終わっていたの。だから私はあなたが羨ましいわ」

 8年間もIS-3で居続けた、というよりも、次のTierになれば今より辛くなるか幸福になるか、その2択しかなくなるのが堪らなく怖かったから、今のままでいることを選んだだけである。その二択、大体は辛くなることの方が多いのを、長い間生きていると他者の経験が嫌でも目に耳に入る。別に前のTierに戻れなくはないが、そもそも次のTierを夢見て車体を開発するのに、その希望が絶望だった時、あまつさえその希望が10だった時、今までの生涯の目的が地の底に叩きのめされた時、果たして正気でいられるのだろうか。私は自分を保てる気がしなかっただけ、前に進むのが怖かっただけの小心者なのかもしれない。
「それにしてもオールドレディ(おばあちゃん)だなんて失礼じゃない?」
「いいんだ、皆嫌味ではなく敬意でそう呼んでいるから。私は嫌などころか、私の欠点を日常の出来事として受け入れられている気がして安心すらする」
「そう……あなたがいいのならいいのだけれども」
 それっきりサポートセンターに着くまでマウスは何も言わなかった。

「さ、この端末にあなたのIDを入力して」
 無機質な黒い端末の入力欄を指さした。サポートセンターには人は基本的に寄り付かない。頻繁に利用しているクレーマーは除くが。
「これに入力すればあなたのプレイヤーページに飛べるはず。そうすればガレージがどこにあるか、あなたが何者なのか分かると思う」
 マウスは神妙な顔つきで端末と睨めっこしている。他人の個人情報を覗くのは良くないので調べ終わるまで飲み物でも買ってこようかな、そう考えていると
「ねぇ、IS-3。この端末おかしいわ。私のIDを検索欄に入れてもエラーとしか表示されないのよ」
「ちゃんと合っているか確認した……んだろうな」
「何回も見直して指差し確認までしたわ。でもエラーだわ」
「他人の個人情報を見るのは気が引けるのだけれども、IDを教えてもらえる?私がやる」
「これよ」
 マウスから送られてきたメッセージにIDが記載されている。それをコピーしてペーストして検索にかけるだけ……なのだが確かにエラーが返ってきた。
「変だね」
「変だわ」
 二人で合っているはずなのに延々と間違っていないと主張してくる端末と格闘をして頭を抱えていると
「あら、オールドレディじゃない。あなたがサポートセンターに来るなんて珍しいわね。クレーム?」
 後ろから、背が高く、丸い整った顔つきで、長い金髪のロングヘアーを靡かせながら、Loweが声をかけてきた。彼女とは昔からの長い付き合いで、戦友でライバルだったり、昔からいる同士話が合うからたまにプラトーンを組んだりする所謂腐れ縁。
「なに、ケツブロでもされたの。もしそうなら面白そうだから話聞かせなさいよ」
「それはお前がサポートセンターに来た理由だろ。私は少し擦られたぐらいじゃわざわざ報告に来ないし、そもそもケツブロされるような混雑して狭い場所では戦わない。今日来たのはそんなんじゃないんだ」
「あーやだやだ、これだから高機動HTは嫌なのよ。自分のことだけ考えてまるで一匹狼みたいに戦線をひょこひょこ変える奴は信用できませんわ。あなたも少しは私を見習って、落ち着いて自分の長所を押し付ける戦いをするべきですわ。味方のために戦線を維持することをたまにはやってみてはどうですの」
 いつものように憎まれ口を互いに言い合いたい所だが、今日は相手をしている余裕はない。
「わかったわかった。私は忙しいから構っていられない、さっさと報告してこい」
 ただでさえエラーを吐き続けている端末で頭が痛いのだから。
「それで横にいるデカブツはあなたの知り合いかしら」
 この女はすぐ物事に首を突っ込む。忙しそうにしているんだから少しは遠慮したらどうなんだ。無視するのは可哀想なので、複雑な事情と共に紹介しなければならない。
「……彼女は、その、自分のガレージが分からないって言うから一緒に探してあげている所なんだ」
「ふーん、なんだかマウスにしてはやけにのっぺりして錆びれているわね。そういうスキンかしら」
 初対面の人にも容赦がない。いい加減少しは礼儀を覚えてほしい。マウスは人見知りなのか自分の情報が全く出てこないことにショックを受けているのか表情からは読み取れなかったが、浮かない表情で答えた。
「初めましてなのだわ。lowe」
「初めまして、Maus。以後お見知りおきを」
「Mausとはガレージが見つかるまでの間だけ世話を見てやる約束だ。Tierが異なるから私がそこから先、戦友でいるかどうかは分からないぞ」
「冷たいんだから。マウス、この人はね、味方が怪しくなるとすぐ別の戦線に転進する薄情な性格をしているからあまり信用しちゃだめよ。尤も、私はたとえ不利でもその場で撃破されるまでマウスと一緒に戦ってあげますけれど。だから、もし一緒の戦場で出会えたらこいつより私を信じてくださいな」
「お前は情が厚いんじゃなくて陣地転換する足がないだけだろ。自分がハルダウンできる場所しか考えていないくせによく言う」
 ギャーギャー言い合いながら入力を終えて検索ボタンを押したところ、端末は無慈悲にも10回目のエラーを返してきた。
「やっぱりだめだ。マウス、本当にIDはこれで合っているのか?」
「間違いないわ!そうプレイヤーIDは表示されているもの」
 うーん……どうしたものだろうか。IDが間違っていなくてサポートがエラーを返してくるということは、もしかして彼女は本当にこの世界の住人ではないのではないだろうか。しかしそんなこと言っても頭がおかしい奴扱いされるだけだ。
「なによ、さっきから同じIDを何回も検索しちゃって」
「あぁ、それがガレージを探すためにはIDから個人情報を参照するのが一番確実で手っ取り早いだろ。だから検索をしているんだが何故かエラーしか返ってこないんだ。IDも間違ってないとマウスは言うし……」
「端末のバグでしょ。よくあることよ」
「よくあることのか……」
 そういうものだと納得していいものなのか。重要な個人情報を管理しているのにそのような怠慢は許されないはずだが、バグに関して経験者がよくあることと言うのなら、きっとそういうものなのだろう。知りたくはなかったが意外にも私たちの管理者は雑なようだ。
「そういえばバグで思い出した。lowe、マウスの名前の後ろに何か数字が書いてないか?私が知らないだけで最近の流行なのかと思い、ここに来るまでに色んな奴らの名前をみたのだが皆いつも通り戦車名が浮かんでいるだけだった」
 そう言いながらマウスの頭上を指さした。
「……あなたが何を言っているのかさっぱり理解できないのだけれども」
「だからこいつの名前の後ろに……」
「えぇ、何も表示されていないわ……"Maus"としか私には見えなくてよ」
 どうやら"MAUS 0.8.11"と見えているのは私だけらしい。これもよくあるバグなのだろうか。
「なんだろう、バグかな。変なことを聞いた、忘れてくれ」
「……あまり無理しちゃだめよ。時には休むことも大切なのだからね」
 憐みの目でこちらを見るな。

 loweと別れてサポートセンターを後にした。結局、個人情報を見ることは叶わなかった。だからガレージの場所も分からない、何一つ進展がなかった。唯一分かったことはマウスの名前の後ろの数字は私にしか見えていないということだけ。
 とにかくガレージを探さなければ私の部屋はいつまで経っても広くならない。もういっそのこと新しく買ってしまったほうがいいのではないだろうか。実際いい案なんじゃないか、そうだ新しく買ってしまおう。ガレージを作ってもらうには何日か時間がかかるだろうがそれくらいなら苦ではないし、ホームレスになる心配もないから私の目覚めも悪くなることは無い。数日間なら寧ろ友達が泊まりに来たようで楽しそうじゃないか。
 よし、そうなれば金で解決だ。
「ガレージはないと困るから、新しく買ってしまうのはどうだろう。もし個人情報が参照できるようになって、自分のガレージの場所が分かったら無駄遣いになってしまうけれども、いつ直るかわからない個人情報の参照を待って、それまでずっと私の部屋にいるわけにもいかないだろ」
「……そうね。ガレージっていくらぐらいするのかしら」
 声色に元気がない。自分の情報を見れなかったことは、自分がこの世界でない者としての不安を煽り、余程ショックを受けている。
「多分、300ゴールド。ガレージなんて頻繁に買うものでもないから昔のまま値段が変わってなければ、だけれども」
「……私の手持ちのゴールドじゃ全然足りないわ」
「それぐらいなら私が立て替えてあげる。そのうちゴールドが貯まったら返してくれ。私は迷彩を暇さえあれば変えてきた訳でもないし、ステッカーの類も買ったことは無いから、ゴールドが沢山余っていて使い道を探していたくらい。だから迷惑だとかそんなことは思わないで。私の一方的な押し付けだ」
「私、カレリアで会ってからあなたに迷惑をかけっぱなしね。知らない世界で迷子だったのをあなたに世話してもらってばかりで、感謝の言葉を何度言っても足りないわ」
「これくらい気にするな。困ったときはお互い様だよ」
「ありがとうなのだわ……」
「注文し終わったら昼食にしよう。何か美味しいものでも食べようか」
 まだ午前中だというのに一日の終わりのような、重い、しんみりした空気を纏って二人共浮かない足取りで、ガレージを注文しに行った。値段は300ゴールドから変わりなかったが、予想以上に時間はかかるようで、出来上がるのは一週間後になるらしい。
 そんな気分の時に美味しいものを食べたぐらいで気分が晴れる訳もない。寧ろ哀しい記憶に結び付けられて味さえ分からなくなるものだ。自分で言っておいて、まるで負けが確定した戦局に一人残された時のようなやるせなさで胸がいっぱいになった。

7/30
「私、戦場へいきたいの」
 時刻は13時半、新しいガレージの注文後、昼食を食べ終わり私のガレージに帰ろうと歩いていた。
「戦場へ行くとね、余計なこと考えないで済むから。このままじゃ不安で押しつぶされてしまうってそう思ったのだわ。別のことを考える余裕があるときって、それってつまりは答えに歩み寄っているってことなのよ。本当に何かの真っただ中にいるときは何が何だか分からなくて、考えなくて済むの」
「行きたいなら行くといい。残念だけど一人で行くしかない。私はTier8だからね」
「それでも、この世界に慣れるまではあなたと一緒にいたいわ。せめて私が知っている世界の人が一緒でないと、私の異物感が一層増して、ここにいるべきじゃないって思ってしまうのだわ」
「……一緒に行ってやりたいのは山々なんだが、今は昔と違って格差プラは組めないようになっているんだ。マナーや倫理がどうとかじゃなくて、そういう制限なんだよ」
 格差プラトーンはver 0.9.17で禁止され、同tierでないとそもそもプラトーンを組めないようになった。できれば私だってMausと一緒にいてあげたい。周りは知らない戦車だらけで、知らないマップも多い未来の世界にひとりぼっちだなんて考えるだけでも体調が悪くなる。
「納得できないのなら試してみる?私と本当にプラトーンを組めないか」
「お願いするわ。それでだめなら私も納得するもの。やる前から分かれだなんて無理な話だわ」
「わかった」
 若干呆れ気味にMausにプラトーンへの招待を送る。が、驚いたことに、Mausはすんなりプラトーンへ参加してきてしまったではないか。
「……あなたは酷い噓つきなのだわ」
 私に嘘を言われたと思い込み悲しそうな顔をしている。
「えぇ……。すまない、私は知らない間に噓つきになってしまっていたようだ」
 混乱を隠せない。これもバグなのか、それとも……
「さあ!行きましょう。知らない戦車、知らないマップはあなたが案内してくれるって私信じてるわ。今度は嘘をつかないって」
「はいはい」
 ただ、私には拒否する権利は残されていなかった。

 

 本当に戦場へ格差プラトーンのまま出れてしまった。Teir10のMausとTier8のIS-3が一緒に組むのだからマッチングは357か447の二択になり、ずるなんだろうけれど、周りもまさか現バージョンで格差プラができるとは思っていない。故に何も聞かれはしなかった。傍からはたまたまマッチングしてダイナミック小隊を誘ったぐらいにしか見えない。
 どんなにおためごかしの言葉を並べようともやっていることは、恐らくバグ利用のグリッチだ。WG憲兵に見つかれば即刻処罰は免れない。何か対策を考えなければならない。
 勢いでやってしまった事への罪悪感と後悔を募らせていると、本日の戦闘を終え、洗車してもらい気持ちよさそうな顔をしたMausが出てきた。
「今日は楽しかったわ!ありがとうなのだわ、IS-3」
 そりゃ常にTOPを引けていたんだ、楽しかったろう。付き合わされた私はボトムだったから戦闘は楽しくなかったが、知らないことだらけのマウスに色んなことを教えながらやるのは、ただ長く生きてきただけなのに偉くなったような気分になって悪くはなかった。
「あなたと色んなマップへ行って、知らない戦車をたくさん見て、やっぱりここは私の知らない世界だって確信もしてしまったわ。でもね、あなたが傍にいてくれるなら、私はここで生きていけるような気がするの。嬉しいとか悲しいとか驚きとか、私の感情を受け取ってくれる人がいてくれるなら、新しい環境を受け入れるのに時間はかかるかもしれないけれど、頑張れるって、そう思うの」
 純粋な気持ちをぶつけられて、世界でひとりぼっちの彼女に対して、どうしてグリッチだから明日からは組めないなどと言えようか。心が悪事の正当化を始める。罪悪感と保護欲からなる共感がせめぎ合う。
「明日はもっと知らないマップへ行こう」
 ぎこちない精一杯の微笑みを浮かべながら、彼女へそう呟いた。

3日目

 カーテンの隙間から朝日が差し込み目が覚める。体を起こしてカーテンを開け、纏わりつく眠気を振り払い、陽光を浴びて大きく深呼吸をする。今日も穏やかな天気になりそうだ。一方で、まるで朝日なんて気にしないと主張しながら規則正しい寝息をたてているMausを叩き起こそうと近寄ると、昨日とは違う違和感に気づかされた。違和感は、彼女が私の部屋にいることではなく、上手く言葉で表現することが出来ないが、Mausが昨日よりも綺麗に、解像度が上がっているように見える。
 解像度が上がっているというのは何かの比喩表現ではなく、本当にそう見えるのだ。何か心当たりはないか聞いてみるためにも、砲身を叩きつけた。

「あ゛あ゛、今日も体が響くのだわ……ルインベルグの鐘の音なのかしら!」
「おはよう、マウス。朝食を持ってくるから訳の分からないことを言ってないで目を覚ましておいてね」
「……もっと優しく起こしてほしいのだわ」
 気持ちよさそうに寝ている奴を起こすとき、つい悪戯心が芽生えてしまうのは私の悪い癖だ。

 朝食のメニューは昨日と変わらない。二人して食パンにバターを塗りモソモソと頬張る。
「……ねぇ、マウス。あなた昨日に比べて随分と綺麗になったように見えるのだけれども何かしたの?」
「いきなり褒められると照れるわ。そんなに煽ててもチョコレートはあげないわよ」
「チョコなんていらないよ。嘘じゃなく本当に綺麗になっているんだ。転輪とか砲塔とか、履帯とか、なんというか昨日よりもかきめ細かくなっているよ」
「別に何もしてないわ」
 嬉しそうににやけながら彼女自分の体を眺めている。これだけ見るとナルシストの気持ち悪い奴にも見えなくはない。だが、お世辞などではなく確実に綺麗になっている。本人は嘘をついているようには見えない。
「loweが言っていたスキンとかではないの?それを変えたとか」
「何もしていないわ。けれどもあなたに綺麗と言われて気分がいいから、何か知らないけれども感謝だわ!」
「そう、本当に何もしていないんだ」
 この違和感の正体はいったい何なのだろうか。コーヒーを飲むために顔を少し上げたところで彼女の名前が目に入った。
 そこには"Maus 0.9.0"と表示されている。まだ私は寝ぼけているのだろうかと思い目を擦って再び見てみてもその表示は間違っていないようだった。昨日は0.8.11で今日は0.9.0、見間違いではない。
「なによ人の頭の上をずっと見て。そんなに寝癖が酷いのかしら」
「い、いや、なんでもない。なんでもないんだ」
「そう」
 何でもないと言ったが気にして髪を弄っている。私が気になっているのはもっと上だ。
「今日もプラトーンを組みましょう!」
「午前中に少し用事がある。それが終わってからなら付き合うよ」
「分かったわ。それまで私は時間をつぶしているわね。昨日と同じく昼食を一緒に食べて、そしたら戦場へ向かいましょう」
 私はとにかく調べ物がしたくて、朝食をそそくさと食べ終え、出かける準備を済ませると部屋を後にした。

 ここwot wikiには初心者指南から車両の細かなスペックまであらゆるモノが記されている手引書だ。律儀にも毎バージョンごとの更新内容についても同じく記載されている。
 私の推測が正しいのならば、今日のMausが綺麗になったことと、名前が0.9.0になったことの辻褄が合う。もしかしたらそれだけでなく、これから何がどうなっていくのかも……。
「あった。更新履歴のページだ。えーっとver 0.9.0はっと」
 目的のぺージを探し当て内容を参照する。
「以下の車両がHDモデルに変更。T-54、M103、Tiger1、Maus……」
 やはりそうだ。
 あのMausは何が原因か不明だが、ver 0.8.11から現バージョンまでタイムトラベルして来て、過ごしているうちに急速にアップデートされて行き、名前の後ろに書いてあるバージョンの性能になる、ということなのだろう。どうせバグ。
 名前の後ろの数字の謎は解けたが、何故タイムトラベルして来たのか、アップデートされていく速度の謎は手掛かりがないままだ。
 といっても、テクニカルサポートに「タイムトラベルしてきた戦車がいる」と伝えたところでいたずらか頭の可笑しい奴と思われるだけだろうし、何より私以外の人にはMausの後ろの数字が見えないようなので、他人に相談するのは考えづらい。一人で調べるか考えなければならない。
 アップデートされていくのも謎だ。今は0.9.0だがやがては現バージョンの1.9.1までくるのだろうか。仮にそこまで来たとして、名前の後ろの数字は消えて、そうしたら晴れて現バージョンの住人として生きていくのか?
 原因が不明なことから発生した事象の未来など分かるはずもない。今は名前のバージョンと性能が合致して、その数値が日に日に現バージョンに近づいていることが分かっただけでも良しとしよう。次Mausに変化が起きても取り乱さずに済む。
 Mausの項目について記載されているバージョンのページをコピーして約束の昼食へと向かった。

 

「ぐあー今日は特別に疲れたわ。知らない戦車に知らないマップだらけ、流石に限度ってものがあるはずよ。戦場で浮ついてボコボコにされるのは、なんというか相手と対等な立場で戦えていない気がしてきてつらいわ。自分の無力さに泣きたくなるもの」
 Mausはそう愚痴を吐きながら簡易ベッドへと体を放り投げる。
 午後の戦績は端的に言えば、現環境を牛耳っている戦車たちに為す術もなく、経験値ボックスまたは演習の標的のように一方的に撃たれるものばかりになってしまった。戦場は知識が8割を占める。因みに残りの1割はセンスで1割は運だ。
「大事なのは負けた時にしっかりと学んで、次会う時までに対策を講じておくことだよ。一緒に復習しよう」
「それにしても、あのチーフテンとかいう女、いけ好かないわ。まるで自分が一番強いHTでそれ以外はゴミとでも言いたげな高圧な顔と態度、美人なのが更にムカつくわ」
 正直、tier8の私にはtier10の戦いなんてこれっぽっちも分からなかったから、一緒の感情を得られずむず痒い。そりゃ私もMausの隣で戦っていたのだけれども、突如現れたチーフテンにMausは撃破され、TOPのHTがいなくなったのだから当然隣にいるボトムの私も撃破された。
 文字通り何もできなかったし、正直、復習しても弱点なんてないように思える。そもそものマシンパワーが違うような気がしてならない。
 私の知らないチーフテンとMausの性能差を話し合うよりも、私が知っていて彼女が知らないマップについて煮詰めていったほうがいいだろう。今の私ができる効率のいい反省とはそれぐらいしかない。
チーフテンも考えなければならないけれども……あのね、マウス。パリは中央を突っ込むのはセオリーではないんだ」
「この前、言われた通りJKラインへ行ったけれども何もできずにやられてしまったもの。だから今回はちょっと無理して真ん中行ってみただけよ。ちょっとだけ……」
「無茶するのはやめて」
「……だって少し無茶をしなければ、あなたを守れないじゃない。あなたは私をもっと囮にするべきだわ。前線で、気が付いたら私だけ生き残って、あなたがいなかった思いはもうごめんだもの。あんな歯痒いはもうしたくないわ。私が無茶をして、あなたが生き残るぐらいの方がいいのよ」
 自分の力量が足りないことを悔いているのか、それとも私の動きを批判しているのか、その時の私には判別がつかなかった。
 相変わらずじめじめとした天気と熱気に蒸らされている。真夏を知らせる気候と雲によって覆い隠された夜空が私たちを見下ろしていた。

7/31
8日目

 あれから数日後、新しいガレージが完成する日が来た。
 カーテンを開け、彼女を起こすのは、短い期間ながらも朝のルーチンに組み込まれていた。その時に、マウスのバージョン名を確認する。
「0.9.17......」
 ついにこの日が来た。バージョン9.17、それはマウスの桁外れなバフと、格差プラトーンが禁止されたパッチだった。過去のバージョンがそのまま彼女に適用されるならば、今日からは彼女とプラトーンを組むことはできない。私がtier10にならない限り...…。
 私がtier10になれば彼女とまた一緒に戦場へ行ける。だが今更、この車体を変える気にはならなかった。たった一週間、その覚悟を決めるにはあまりも短く、そして今までの足場が揺らぐには十分な影響を受けていた。
「ほら、マウス。起きて」
 起こすときは、砲身を叩きつけるのではなく、車体を揺らすようになった。揺らすだけでは全く起きてくれないのが難点だが、こうして起こすのも今日が最後だと考えたらなんだかもったいなく感じて、この時間がずっと続いて欲しいと、少しだけそう思ってしまった。
 規則正しい寝息をたてて、そんなに気持ちよく寝ているんだもの、いっそのこと私も一緒に寝てみようかな。私は二度寝なんてしたことないのだけれども、彼女の誘惑に逆らえず、彼女のそばに寝転がって、目を閉じ気を抜いたらあっという間に意識が再び暗闇へ落ちていった。

 ……コーヒーの香りがする。 そうだ、朝食を取りに行く前にマウスを起こさないと。
「IS-3、起きてよ。朝食が冷めてしまうわ」
 誰かが車体を揺らしている。朝日が顔を照らして眩しい。ゆっくりと目を開く。カーテンを開けたところまで記憶はあるのにその後がない。マウスのベットからむくりと体を起こす。
「やっと起きたわね。驚いたわ。起きたらあなたが隣で眠っているのだもの。だから、私が代わりに朝食を持ってきてあげたわ」
 気まずい。いつもは私が起こしているのに、気持ちよさそうに寝ている姿に誘われて一緒のベットで二度寝してしまった時って、どんな会話をすればいいのだろう。
「え、えぇおはよう、マウス。その、これは、つまりね。そう、眠く、て」
 精一杯の言い訳すら上手くできない。
「…ごめんなさい。つい寝てしまった」
「謝ることないわ。寝るのって凄い気持ち良いから仕方ないのよ。睡眠は大切だもの。そのおかげで、あなたの寝顔を見れて、代わりに朝食を取ってきて、起こすこともできたもの。あなたはいつも私より早く起きるから、初めてだらけで嬉しくなっちゃうわ」
 一緒のベットで寝ていたことについて言及しないのは、彼女なりの優しさなのか、それともドン引きされているのか。
「さ、朝食が冷めてしまうわ。早くベットから出てくるのだわ!知ってる?コーヒーって冷めるとあまり美味しくないのよ」
 そもそも気にしていないのか……。あなたがこの部屋で過ごす最後の日だっていうのに。

 

 ベースは洗車場、整備場、研究所、サポートセンター、各種ショップ、食堂、兵舎が立ち並び、新しい彼女のガレージは、私とは違う兵舎で歩いて5分ほどの距離に位置していた。
 新しいガレージは、独特の匂いがする。乾燥した空気のような、埃っぽいような、新鉄の匂いのような。私の昔建てたガレージとは違って、綺麗で機能性は高いらしい。
「ここが私のガレージなのね」
「うん」
「あなたの部屋と違って、広いのね」
「今まで二人で使っていたからね。ベットとテーブル以外の家具を買いに行くなら付き添うけど、どうする?」
 広い部屋なのに、寝具とテーブルだけでは物寂しい。
「……別にいらないわ。私、余分なクレジットはAPCRと修理代に消えてあまり余裕がないのよ。寝られればそれで十分だわ。クローゼットが欲しいところだけれども、暫くは段ボールで我慢するわ」
「あなたがいいのならいいのだけれども」
「それよりも、IS-3。荷物を運びこんだのだから、一緒に戦場へ行きましょう!今日もプラトーンを組むの。昨日考えたハリコフの攻略法を一緒に試すのよ」
 部屋に段ボールを運び込んだだけ、といっても彼女の持ち物は服と化粧品と洗面用具ぐらいなもので荷ほどきに時間はかからなそうだった。プラトーンを組むのが楽しいのだろう。上機嫌な表情で私に話しかけてくる。
「その……そのことなんだけれども、私、もうあなたとはプラトーンを組むことが、多分できない」
「え?」
「もう、一緒に戦えないんだ」
 それまでの快晴の表情は、この間までの暗雲とした雨雲模様のように不安で歪む。
「それって、私と組むのが嫌になったってことなの?」
「違うんだ。私はあなたと一緒に戦いたいさ。でもね、恐らくもう……。試しにプラトーンの招待を送ってあげる」
 百聞は一見に如かず。
「……なによこれ。『プラトーンは同Tierでしか組めない』?今までこんな表示はなかったわ」
「過去から来たあなたは知らないのは当然だし、何故か組めたから私も深くは調べず追求しなかった。今のバージョンではね、格差プラトーンは原則禁止されていて、Tierが異なると組めないんだ。今までは、何故か組むことが出来たけれども、それはあなたが現在に馴染むまでの執行猶予のようなもので、それが切れるときが来たんだと思う。私の部屋から独り立ちして、現バージョンへの手引きはおおよそ終わった。案内人としての役割はもう何も残っていない。そう思うんだ」

 最早、立派に一人で戦っていけると思うし、バグも都合のいいように解釈してしまったけれど、なんとなくそう感じる。きっとこの世界に適用していける知識をつけて、一人でも大丈夫だろう。旅立ちの日が来た。
「何も今生の別れじゃないんだ。私は生きているから、話したいことがあれば部屋に来ればいい。もし戦場で一緒になったら心強い。でも私はTier8だからあなたの傍では、もう、戦えない」
 それに今のあなたは私が見てきたMausの中でも一番強い状態にある。他のTier10と比べても遜色ない。HP3200でDPMも高いMausは環境トップに躍り出るだろう。私がいたのでは逆に足かせになってしまう。
「あなたも私が、一人で戦っていけるってそう思っているの?」
 喉奥から絞り出したようなかすれ声で縋る。
「もちろん。Mausが知らないマップはもうないし、Tier10で知らない戦車もいないだろう。立派に一人で戦っていける」
「……あなたが応援してくれるなら、私頑張れるわ。いえ、あなたが応援していてくれるから、頑張るのよ」
「うん……」
 友達の門出だというのに、互いに涙を浮かべている。人は別れの時に見た顔を、次会う時まで覚えているから、笑って送りだろうとしたのに。
「それじゃあ、また、ね」
 振り返らずに部屋を出た。

8/1
15日目

 あれから一週間経った。昔を思い出しているような懐かしい強いマウスがいる。そんな噂を聞く。
 なんだ大丈夫じゃないか、大丈夫なんだよ。……本来、大丈夫は、相手に言い聞かせ安心させるための言葉なのに、何故自分に言い聞かせているのだろうか。
 広くなった部屋で朝食を取る。彼女が去ってから、部屋は本来の広さを取り戻した一方で、私の心からすっぽりと抜け落ちた寂寥感は未だ埋まりそうにはなかった。
 空を見れば、すっかり梅雨が明けて、それまでの陰鬱とした空気や雨雲は消え去り、どこまでも澄んだ青空や大きな入道雲が浮かんでいる。その中に浮かぶ太陽は、とうとう自分の本当の力を解放したかのように猛威を振るおうとしていた。けれど、私の心の中からは、湿っぽさも、薄暗さも未だに吹き飛んでくれない。
 今まで夏の青空について考えたこともなかったが、よく見てみれば、好きになれそうにない。どこまでも青く、濃い青空はまるですべてを見透かしているかのように、そこへ浮かぶ大きな入道雲は夏の青空とアンマッチで違和感を覚え、太陽が尊大に私からやる気や体力を奪っていく。
 今日の予定は何もない。あれから一人で戦場へ赴いてみたが、彼女がいない戦場はどこか無味乾燥で、楽しくもなければ面白くもない。フィードバックしたり、一緒に傍で戦ったりした記憶に勝る経験は得られず、いつの間にか戦う理由をなくしてしまっていた。
 戦う理由なんてのは人それぞれで、例えば、車両を研究してTier10を目指している、クレジットを稼いでいる、戦闘するのが楽しい、などあるのだが今になってみればどれも陳腐に思えてしまう。というのも、私はフリー経験値やクレジットは最早使いきれないほど溜まり、何千戦も経たからには今更戦闘する楽しさは消え去りルーチンワークのような気だるさが両肩に重くのしかかる。
 彼女といた楽しい時間により、今までのマンネリ化した生活が全くもって魅力的ではなくなってしまった。
 戦わなくなった戦車に価値はなく、毎日を堕落した生活で送っている。ウンコ製造機。このままでは精神だけでなく体まで腐ってしまう。整備だけでもしておこう。

 整備所から出ると、まだ午前中だというのに、一緒にMausも出てくるのが見えた。整備所に行くのは、普通なら一日の戦闘が終了してからで、午前中に行くのは私のように暇している奴か車体の調子がおかしい奴の二択だ。
 Mausは少し落ち込んでいるような顔つきと重い足どりで兵舎の方へ向かっているようだ。
「久しぶり……といっても一週間ぶりだが。……そんな浮かない顔してどうした」
「……IS-3、会いたかったわ。あなたって最高のタイミングで私に会いに来てくれて……」
 うつむきながら嗚咽を堪えている。これじゃまるで私が彼女を泣かしたみたいじゃないか。……実際そうなのかもしれないが。

「助けてほしいの」
「……私の部屋へ行こう」
 顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる彼女を引っ張って、自室へと連れ込んだ。泣いている彼女とは対称に、最低な私の心は賭けに勝った高揚感で舞い上がり、顔はにやついていたかもしれない。

 部屋に連れ込んで、まだ泣いている彼女を落ち着かせるために、コーヒーを手渡す。暫くはお互い無言で、私はずっと窓の外を眺めていた。こんな時はどんな言葉をかけたところで逆効果なんだ。気が済むまで放っておくしかない。何があったか言って来るまでじっと待つ。
 5分が過ぎたあたり、彼女が話を切り出した時には、ぬるいコーヒーは酸味が増してとっくに美味しくなくなっていた。
「…あなたと別れてから、一人で戦ってきたわ。体の調子がよくて、これまでよりも主砲の取り回しも良くなって、沢山弾も弾けるようになって……活躍してきたのよ。でも昨日の戦闘から、なんだか弾が出るのが遅くなって、撃破されるまでの時間も早くなってしまったわ。それで整備所に行ったのだけれども、どこも悪くないって言われてしまって、原因が分からなかったのが怖くて、今までの私も嘘だったんじゃないかって怖くて」
 だろうな。私はそうなるって知っていたから、特段驚きもしなかった。
「それで、これからどうしようかと落ち込んでいたら、あなたが声をかけてくれたのよ。安心してしまってつい取り乱してしまったわ。……ごめんなさい」
「謝らなくていい。誰にだって、急に調子が悪くなったら、そしてどこも悪くなく原因不明の不調なら、混乱して今までの活躍が嘘だったんじゃないかって疑い始めて自信が崩れる。そりゃ泣きたくもなるさ。だから謝らなくていいんだ」
 名前の後ろには"0.9.20"の数字。マウスがナーフされたバージョンだった。DPMとHPが調整され、私たちがよく知る性能のマウスに落ち着く。
 正直、分の悪い賭けだった。ナーフされても気のせいだと思い込み、そのまま環境に適応していくのか、それともこうして私の元へ縋りに来るのか。
 自分の調子を疑うことは難しい。たまたまマップが悪かったり、マッチングが振るわなかったり、明日には直っているだろうと気軽に考え、そのまま自分として受け入れていくからだ。少し調子が悪いからと、その原因を探ろうとすることはほとんど無い。大体において寝て明日には治ると思い込む。
「少し休めば良くなるさ」
 何の根拠もない。励ましてあげたいが、これから先、バフされることはない。きっと良くなるなんて無責任なことは言えない。
 結局は、今の性能を受け入れて付き合っていくしかない。その精神を準備するために少し休めというアドバイスしか今の私にはできない。
「そのこと他の奴には相談しなかったのか?Teir10の戦友くらい新しく出来ただろ」
「誰にも話してないわ。そりゃ知り合いはできたけれども、もしかしたら私の気のせいかもしれないし、だから一度整備所で検査してもらってからでもいいかなって……でもあなたに話してしまったからには他の人に話す必要性はなくなったわ」
 こちらを見ずに、手に持ったコーヒーカップを握り、全く減っていない黒色の液体に視線を落としている。
「そっか……。ねぇ、Tier10の話、Tier8の私が知らない話を聞かせてよ」
「いいわよ、まずEBR105ってのがいてね、Artyが3枚で……」
「……あまり楽しい話じゃないようだね」 
 私がそう苦笑いをすると、彼女は笑っていた。少しだけ元気になったようだ。

「そろそろ昼食の時間だ。一緒に食べに行こう」
「そうするわ!」
「午後はどうするんだ?」
「……今日は休むわ」
「そうか……。それがいい、明日頑張ればいいさ」
 賭けに勝ったんだ。相応の行動にでなければならない。

16日目

 マウスと再会した翌日、彼女が戦場へ赴く前に部屋を訪ねた。訪ねた、と言ってもまだドアの前で踏ん切りがつかずノックできないでいる。このままではただの不審者だ。
 だが、様変わりした姿を見て、私だと気づいてくれるだろうか。もし気づいてもらえなかったら……そんな懊悩は無尽蔵の不安を作り出して、思考を狭めてくる。
 いつまでもドアの前で足踏みしていても前に進めない。意を決してノックノック。
「あのー、マウス?ちょっと話があるんだけれども……」
 ……少しだけ待ってみたが一向に返事は返ってこない。もうすでに戦場へ行ってしまったのだろうか。
「いないのー?」
 ドアノブを回してみると、すんなり扉は開いた。どうやらカギは掛かっていないようだ。部屋を見渡してみると、マウスがベッドで寝息をたててまだ寝ている。なるほどね。私は部屋の主人が寝ているドアの前で、踏ん切りつかずに悩んでいたようだ。恥ずかしさと悪戯心が相合わさり、私の長い130cm砲を彼女の車体へ叩きつけた。
「あ゛あ゛……車体で砲弾を弾いたように響くわ、鋼鉄の壁なのかしら!」
「もう九時半だ。寝坊は叩き起こさないとな」
 寝ぼけた視線を新しい車体で受け止める。
「あなたは……あなたは、オールドレディじゃない!」
「よく私だと気づけたね」
「砲塔側面に入れた"赤いリボンに白くて大きなつば広帽子"のエンブレムを見れば気づくわ!IS-3から……Obj277に進んだのね。ビッグステップだわ!」
 正直、私だと一目見て気づいてくれて彼女を抱きしめたくなるほど嬉しかった。トレードマークのエンブレムを覚えてくれていて……。喜びがコップから溢れる。
 彼女と別れてから昨日までの時間、戦闘には全く出なかったが何もしていなかったわけではない。研究所へ赴き、貯めに貯めこんだフリー経験値を注ぎ込み、Obj277まで開発を終え、いつでも車体を換装できるように準備をしていた。いつでも彼女を助けれるように。
「私はTier10へ進んだ。これからはお前と一緒だ。戦場も反省会も、勝つときも負けるときも、撃ち合いする時も前線を押し上げるときも、お前の傍にいる。だから今日は、私の方からプラトーンに誘いに来たんだ」

 8/4

107日目

 3か月が経った。
 少し肌寒くなり、木々は黄蘗色や紅葉色に染まり、夏の死臭を携えて秋の到来を知らせている。気を抜けばすぐに冬が来る。
 Mausの後ろにあったバージョン名は現バージョンに追いつくとやがては消滅し、すっかりこの世界に馴染んでいるように見える。この3ヶ月で、彼女とは随分と色んな戦場を渡り歩いてきた。CWE、ランク戦、マップも様々、もう知らない要素はないだろう。
 私はObj277になり、Tier10を謳歌している。この車体、足は速いし最低限の装甲はある、砲塔は堅牢で主砲の単発も貫通もいい。欠点と言えば精度が悪いのか絞り切っても暴投をすることがままあることぐらいだ。Mausが撃ち合いを始めるなら盾にして私も傍で加勢する。戦線を維持してくれるのなら、足を生かして私が他へ転戦する。自分でいうのもなんだが、私たちは互いをカバーしあえて試合を動かせる良いペアだ。
 私はかけがえのない親友を手に入れて、Tier8の殻を破り新天地で、新しく胸を弾ませられる生活がこれからも、ただただ続いていく。そう信じていた。

「今日はいつもより何倍も頑張ったわ、疲れがどっしりと履帯に来ているのが分かるもの」
「私がマウスの陰に隠れて、敵の5式がそれに気づかず発砲した瞬間に私が出てきたときの顔、一生忘れないだろうな。やっちまったって顔、写真に撮っておきたかったぐらい」
「T-54が、277がいると思わずに私の側面に張り付いてこようとして、結局ボコボコにされていく姿も私は好きだわ。あれ程無様な姿もないでしょうに」
 一日の戦闘を終え、洗車場から兵舎へ向かって帰る途中、その日の印象に残っている戦闘を話しながら歩くのは私たちの習慣になっていた。
「あーまたアイス食べてる。もう10月も終わるんだぞ、暑いならともかく少し肌寒い。よく美味しそうに食べれるな」
 帰り道の自販機で恐らく買ったのだろう。
「だってアイスが美味しく食べられるのって、寒さと暑さの線引きが曖昧なこの季節が最後じゃない。冬が来たら夏のように食べられなくなってしまうわ。だからアイス納めのために食べているのよ」
 一理ある。生温い気温は今月で終わりかもしれない。
「そう聞くと確かに今が食べ納め時かもな……私も食べたくなってきた」
「明日は一緒に食べながら帰りましょうよ」
 明日まで我慢だな。これからそんな時間は使いきれないほどあるんだ。焦らずゆっくり過ごせばいいさ。
「じゃあ明日はさ……」
 そう彼女の方を振り向き見上げた瞬間だった。彼女の頭上のMausの名前の後ろに1.9.1の数字が浮かび上がっているのが視界に入る。現バージョンは1.10.0、それはつまり彼女だけ幼化されていることを指し示していた。
 何故バージョンが巻き戻っているのか。やっと現バージョンに追いついて、世界に馴染め始めたのに、あれは環境に適応したのを示していたのではなかったのか。
 焦燥感と危機感が極限までボルテージを上げている。
「ん?どうしたのよ、いきなりかたまって……」
 悟られない様に、誤魔化さなくては。
「明日は休みにしよう」
「休みを取ってどこかへ出かけるってこと?」
「いや、私の個人的な用事があるから、一緒には行けない。多分丸一日かかると思う」
「かかると思うって……あまり定まった用事という訳ではなさそうね」
「あまり探らないでくれ。大事な用事なんだ」
「そう……ごめんなさい。今までずっとあなたと一緒だったから、隠し事をされているような気持になって少しだけ気になったのだわ」
「いいんだ、私も今急に思い出したからね。そういう訳で明日は別行動で頼む」
「オッケーよ」
 明日は朝早くから情報収集に出なければならない。せめて調べる忙しさに没頭していれば、さっきからけたたましく鳴っている心の警鐘を少しでも落ち着かせると思ったから。嫌な予感が当たらない様に、未来に及ぼさないように。不安に煽られて今夜は寝付けそうにない。

 不安に押しつぶされそうになり、朝一で情報を集めるためサポートセンターへ赴き、報告されているバグとフィックスされたバグ、バックアップに伴った更新、彼女がこちら側へ来てからのモノは全て調べた。が、Mausの他に同じような症状は一つも報告はされれていない。もちろん、存在しないバグへのフィックスだってない。
 もしかして報告されていないだけで、WGはこのことを把握していて、サイレントフィックスしているのだろうか……流石に深読みし過ぎかな。だが、過去に通告なしにマップの一部が変わったりすることは多々あったから、その可能性は捨てきれない。
 そうだとしてWGにとってMausの存在はバグなのだから修正するのは何も間違っていない。私の方が間違っているだなんてわかっている。それでも私は私を肯定しなければならない。絶対に正しいんだって。
 相談できる人もいない。あの数字は私にしか見えないんだ。他の奴から見たらただのマウスでしかない。かといって一人で調べるのも解決策を考えるのも正直手詰まりだ。数字が現バージョンに近づいてくる分にはよかった、何も危惧することはなかった。だがこれが逆向きになるなら話は変わってくる。このまま放置してMausが最初期のバージョンまで巻き戻った時、どうなるか予想もつかない。
 これは自然の摂理に抗う行為なのかもしれない。太陽が海面を蒸発させ、その水が大気中に蓄えられて氷や雪として山へ、雨として地上へ降り注ぐように。生命を受けたものがいつか死ぬように。そんな当たり前の、ルールのように……。タイムトラベルしてきた奴を元いた世界へ戻すことは、世界の理なのだろう。だとすれば、私には何も出来ない、干渉する術がない。
 ならば必要なのは抗うことではなく受け入れること。受け入れる?彼女が消えることを受け入れろと!馬鹿が!怒りで頭がどうにかなりそうだ。
 クールダウンする為に一度切り上げてコーヒーを飲みに行こう。一服、というよりこのままでは怒りに任せて情報端末を破壊してしまう。

  まだ昼食には速い時間、人がほとんどいないカフェの椅子に体をめいっぱいもたれかけ天井を仰ぐ。現実を受け入れる訳にはいかないが、抗う術もない。残り時間は限られている。八方塞がりだ。それが、あまりにも理不尽で、あまりにも悲しくて、あまりにも悔しくて。
 そう背もたれに伸びていると、逆さまになった世界からよく知った奴がカフェへ入って来るのが見えた。
「あら、オールドレディじゃない。どうしたのこんな時間に、まだ昼食には早いんじゃなくて?私はコールドブリューをお願い」
「loweこそ何故こんな時間にカフェにいる。戦闘はどうした戦闘は。クレジットがぽがぽ稼ぐのに忙しかったんじゃないのか」
 ウェイターに注文を伝えた後、対面に綺麗な奴が座る。loweは研究ツリーに属さない代わりにクレジットを稼ぎやすい体質らしい。金持ちで家柄もよく整った顔立ちなのに、宿命かクレジットを稼ぐこと以外に興味はないらしく暇があれば戦闘に出ている。
 尤も、戦車にとってクレジットが目的であろうと、戦闘を多くこなそうとするのは正しいあり方なので否定できない。私がAPCRや修理(大)救急キット(大)レーションを使えば必ず大赤字になるからAPを使ったりレーションを渋ったりして節約するのに、こいつは上記のフルセットを使ってAPCRをばら撒いても黒字になるのが気に入らない。ただの貧乏の逆恨みなんだが……。
「私はこの間、私の車体を擦ってきた操縦手の覗き穴が溶接されているような奴を通報したら何故か私が謹慎処分を言い渡されて暇なのよ。かといって部屋ですることもないし気分転換に来たのだけれども。今思い出したらまたムカついてきたわ」
「そりゃご愁傷さまだ」
「相手にも頭に来ますけれども、一番は罰を下すべき相手を間違えた能無しのWGに対してよ。かといってお上に逆らう訳にもいかないでしょ。この怒りの矛先はどこに向ければいいのよ」
 ご愁傷様なのは怒りの矛先が全く関係ないのに及びかけている私の方かもしれない。
「それであなたは何故ここにいるの。あれだけ慣れ親しんだIS-3からTier10に進んで多方面の戦場で活躍してるって聞いたわ。なんだかあなたが知らない所へ行ってしまって置いて行かれたようで寂しかったのよ。それで絶賛活躍中のあなたが、いつもなら戦場へいる時間帯にどうしてコーヒー飲んで寛いでいるのかしら」
「息抜きだよ。たまには休まなきゃな」
「それにしては随分と顔色が悪いじゃない。病気でもないのにげっそりした顔色でこんな時間からカフェで伸びているなんて、何かあったか聞いてほしいってオーラが漏れ出しているわ。ほら話してみなさいよ、私は話したわよ」
 そりゃお前が勝手に話しただけだろ、と喉元まで出かかっていた言葉はコーヒーと共に飲み込んだ。どことなくあいつと似ているような口調で、あいつの方がたどたどしい言葉遣いだったが……。八方塞がりの現状と答えがでない心情のために相談してみるのも一つの手だろうか。
「……loweはさ、もし大切な人の寿命があと3ヶ月ぐらいしかないって分かったらさ、どうする?」
「……いきなり重い話が来たわね。そうね、どうするって言われてもその前提なら私には大切な人の死をどうにか避けたりすることはできないのでしょう?なら、せめて私の記憶でいっぱいにしてあげるかしら。私の中の記憶も、大切な人の記憶も。大切な人が死んでしまうまでの時間を私でいっぱいにしてあげたいもの。その人が死んでしまったとしても、決して忘れないように私の中もいっぱいにしたいもの。出来れば何か形あるもの、その人の欠片でもいいわ、その人でたくさんになりたい。人の本当の死っていうのはね、その人のことを忘れてしまった時だから、私がその人がいた風景の重みと手触りを、風の薫りと意味を決して失わないように、名残を抱いて生きていけるようにするわね」
 loweは私よりよほど死を受け入れる覚悟ができているようだ。恐らく彼女が私と同じ状況に陥っても、私のように微かな抵抗を企てず、残された時間を全て使って死の塊を大切に抱いて受け止める。
「どうにかして死を回避しようとか、そういうことは思わない?」
「だって無理なんでしょう?ならどうしようもないじゃない。助かる方法があるなら全力を尽くすのだろうけど……。大事な残り時間を可能性の低い、いやゼロと分かり切っていることに浪費して、死に馬に鍼を刺す結果になってしまったら、自分が情けなくなって酷く後悔することになるでしょうね。嫌よそんなの」
「……仮にloweの言う通り死を受け止めて、その後に大切な人がいなくなってしまったショックで自分も死んでしまおうって」
 鈍い殴打音と共にテーブルが強く叩きつけられ、loweは私を睨み付けて言う。
「馬鹿なこと言わないで!あなた、私が言ったこと何もわかってないわ。後追いしないように、その時の記憶を心の支えにして生きていくの。残りの人生、その人のことを毎日思い出して、忘れないように呪われるのよ。一緒に死んでしまったら誰がそれをするの?誰もしてはくれないわ。私は絶対に忘れない、忘れてやるものですか。私の感情を心を生活を思考をぐちゃぐちゃにしていった奴が、剰え私より先に死ぬなんて許してやるものですか。朝起きて思い、寝るまで思い、忘れてやるものですか。……だからそのために私は思い出を抱えて生きてやるわ」
「loweって強いんだ」
「そうよ。……そうね、もしするなら後追いなんかじゃなく、その人が生きているうちに一緒に死ぬわ。そうすればめでたく2人揃って永遠よ。……戯言のつもりだったけれども案外これも悪くないかもしれないわね……。夜の冬の湖に2人だけで小舟に乗って、頬を寄せ合ってそれでも埋められない隙間に雪が落ちて、今までの思い出や幸せの数を数えて。一緒に身を投げるその瞬間、月と星が回るのが最後に見えるの。沈みながら見る水面には、船が天に昇っていくように見え薄氷越しに月と星が波間に揺れながら点滅していて……いけるわこれ」
「それは共感しかねるな……ちょっと引く」
 思っていたよりもloweは感情が大きい奴だったようだ。朴念仁の私には格別に参考になる。実際残り時間が定められているのに、抗いようのないまるで雲を掴むような月に手を伸ばしているような時間はないんだ。大切な人と自分の中の心を思い出でいっぱいにする。その記憶を、残滓を抱いて生きていく。
「……こんなところで油を売っている余裕はないんじゃないの。あなたの表情、行動、重い相談を聞いてくる限り相当まいっているじゃない」
「……そうだね。そうだな。ありがとう、おかげさまで考えがまとまってきたよ。これからの時間をできる限りのことをして記憶に刻み付ける」
「腰が重たいのと中々自分に素直になれないのあなたの悪い癖よ。そこさえなおせば……」
「なおせば?」
「……なんでもありませんわ。早く行ったらどうですの。あ、私がこれほどアドバイスしてあげたのですからコーヒー代くらい出して欲しいものね」
 悪い方向へ傾倒しかかっていた私の思考を覆して、現実と向き合う覚悟をくれたんだ。コーヒー代とは別に後で何か感謝の気持ちを示さないとな。
「お前、クレジットは使いきれないほど余ってるだろ」
「お金持ちってケチなのよ」

 
「はーい今出るわ!」
 loweに諭された後、私はMausの部屋の扉をノックしていた。
「あら、あなただったらわざわざノックなんてしなくてもいいのに……って何よその荷物!」
 数日間は泊まれるだけの荷物と一緒に。
「私、これからしばらくの間お前の部屋で世話になろうと思って……」
 唖然としながらも私の異様な雰囲気からただ事ではないことを悟ったのか、すんなり部屋へ入れてくれた。
 大きなキャリーバッグをその辺に放置してソファーへ腰を下ろすと隣にマウスも座る。気まずい少々の沈黙の後、先に口を開いたのは彼女の方からだった。
「え、何、家出なのかしら。でもあなた一人ぐらしよね。……完全に理解したわ。きっと部屋が自走砲の誤射で吹き飛んだのね」
 私の奇々怪々な行動に支離滅裂な推理を展開している。
「そんなところ。だからしばらく居候させてもらえるかな」
 いつからだろうか。嫌っていたのに、息をするように嘘をつけるようになったのは。
「……嘘ばっかり言うんだから。部屋が吹き飛んだにしろ、家出したにしろ、あなたが私の部屋で過ごすことは全然構わない、むしろ嬉しいもの!これで夜、話していたらいつの間にか消灯時間を過ぎて、怒られることもなくなるし……何より私があなたの部屋に住まわせてもらっていた時の恩を返せるのだから」
「そう言ってもらえると助かるよ」
 相変わらず私の部屋と比べると、こっちは広い。二倍ほど差があるように見える。私も古いガレージ引き払って新しいのにするべきかもしれない。
 広い部屋にあるのは、クローゼットとテーブルにソファーに、随分と大きなベット。せっかく広いのにやけに簡素だ。生活に必要の無いものは買わない主義。
「相変わらずお前の部屋は広いな。私の部屋の倍はある」
「それは、多分あなたの部屋と比べて家具が少ないからよ。整理や掃除が得意ではないから必要最小限のものがあればいいかなって思ったの。あ、でもこれを見て欲しいのだわ!」
 そう言ってマウスはベットへ飛び込む。
「私、大きなベットが大好きだったから、つい奮発しちゃってクイーンサイズのベットを買っちゃったの。見てこれ、寝転がっても全然落ちないのよ!」
「それにしてもデカすぎないかこのベット」
「それがいいんじゃない。それはそうとあなた寝床はどうするの?」
「簡易ベットを借りるつもり」
「どうせなら一緒にこのベットで寝ましょうよ!大きいから余裕で2人分の広さがあるのよ!……そうすればあなたと寝るまで話をできるわ」
「えぇ……」
 友達と一緒のベットで寝るなんて経験は今までで一度も無かったから、反射的に躊躇してしまった。
「……嫌ならいいのよ。床で寝るといいのだわ」
 私は何を迷っているのだろうか、loweに言われ覚悟をして来たのに今更何に怖気づく。見ろ、彼女が拗ねてしまっている。
「……ん分かった。お前がいいのなら今日から一緒のベットで寝させてもらう」
「そうよ!」
 嬉しそうにコロコロと笑う。
 Mausの数字を確認すると、1.9.0。昨日からまた一つバージョンが巻き戻っていた。私に時間が無いことを無慈悲に告げてくる。たじろいだり退いている暇はない。
「あなた、用事は丸一日かかるって言っていたけれども、もう済んだの?」
「大体は済んだ。解決はしていない」
「……はっきりしないわね。でもこうして私の部屋を訪れたってことは今日の分は終わったのでしょ?じゃあ戦場へ行きましょうよ!」
「たまには何も考えずにゴロゴロするのも悪くはない」
「せっかく誘ってあげたのに連れないわね。ゴロゴロして……ゴロゴロしながら話をして一日が終わってそれで終わりなの。あっけないとは思わない?戦友がいて、戦場で話をする以上の経験ができて、勝利と敗北、緊迫感と安心感、喜びと悲しみを言葉のやり取り以上に肌や心で敏感に感じれる。そっちの方がドキドキして楽しいじゃない!」
 気が付けば彼女は戦場の空気を脳で楽しめるようになっていた。バーサーカーのようなチープな言葉で表現されるものではない。戦うことが楽しい、一緒に阿吽の呼吸をするのが気持ち良い、目線を合わせるだけで会話ができる距離、いつしか私の中から消え去ってしまったものを今、享受している。ふさぎ込んでいても何も進展はしないのなら、いっそのこと彼女の空気に充てられよう。
「そうだな。そっちの方が楽しいし、楽しいことをするために生きているんだから、そうしようか。どうやら余計なことを考えて基本的で大事なことを忘れてしまっていたよ」
 Mausがベットから手を伸ばす。引っ張って欲しいサイン。答えるように腕が取れる程の力を込めて起こす。今度は彼女が部屋を出るために私の腕を引っ張る。
「レッツバトル、なのだわ!」
 澄んだ声が車体に木霊した。

8/6
128日目

 彼女の部屋で寝泊まりするようになってから早いもので2週間が経過した。12月に入り外はすっかり寒くなり、夕方と言えば薄暗くなり頬を切りつけるような冷たい空気と枯れた木々、初雪はまだこない。
 Mausのバージョンは"0.9.3"まで巻き戻っている。残り時間は長くても一週間あるかないか。恐らく今年は越せない。いつ何が起こってもいいように覚悟をしながら、毎日を彼女と共に戦場で過ごしている。
 一緒のベットで寝ているMausの頭上の数字を睨み付ける。私の大切な人を奪おうとする許せない奴。
「277……?まだ起きていたの?」
 眠っていたはずのMausから声がする。
「……ちょっと眠れなくてね」
「何故私の頭の上をそんなに怖い顔で睨み付けていたのかしら」
「……眠れなくてイライラしていたんだ」
「嘘。あなたは気づいていないでしょうけれど、嘘つくとき目線が私の鼻を見ているもの」
 嘘をつくのは苦手なんだ。もし目を合わせたまま嘘をついてしまったら、その人に一生後ろめたい気持ちを抱いて底無しの自己嫌悪に陥ってしまうから。
「ねぇ教えてよ。あなたが睨み付ける程何に対して怒っていたのよ」
 医者は末期の患者に死期をピンポイントで教えることはしないという。なんでも、例えば一週間後にきっかり死ぬと言われれば患者や親族がどのような行動にでるか分からないから。
 だが、何も知らずに消えてしまうのはMausを酷く悔やませてしまう。残り時間は一週間もない。避けられないならすべてを教えてしまったほうが互いのためではないだろうか。
 彼女が私の腕を握るのと同時に、ズイっと目線を逸らせれないほど近くへ寄ってくる。長いウェーブのかかった髪が靡いて私の顔を少しだけ覆う。長い艶やかな髪が私の頬を撫でて、鼻腔に届く涼やかな香り。顔にかかる熱い吐息。腕に込められた、ちょっと遠慮気ぎみの力。Mausを象るすべてが、私の五感を刺激する。
「……分かったよ。どうせ残り時間はほとんど無いんだ。隠していたこと全部話そう」
 今まで欺いてきた罪悪感、もう隠し事をする後ろめたさからの解放感。
 Mausと出会った時から名前の後ろに謎の数字"0.8.11"が表示されていたこと、その数字が日を追うごとに増えていったこと、それがバージョン名でその仕様がMausに反映されていたこと、現行バージョンにまで追いついたら表示が消えたこと、そして再び数字が表示されバージョンが逆行していること、私が知る限りのことを伝えた。
「……そう。そうだったのね。だからあなたはここ最近、ずっと焦っているようにも、時より見せる悲しそうな表情も、私の頭上を恨めしそうに睨んだりも、そういう理由だったのね」
「今まで黙っていてすまなかった」
「それで今の私のバージョンはいくつなの?」
「0.9.3」
「……もう少しであなたが言っていた最初の0.8.11ね。その時が来たら私、多分元の世界に戻ることになると思うわ。根拠はない、何となくだけどそう思うのだわ。短い時間だったけれども夢のように楽しかったもの」
 全てを知ってなお彼女は取り乱さない。
「それにしても、あなたは酷い噓つきなのだわ。言わなければならないことを言わないのも立派な噓つきよ」
「そうだな。言い訳はしないよ」
「……っぐ……ぅぇ……ふぇぇぇ……ぇぅっ…ぅ……」
 涙をいっぱいに溜めた瞳が、熱がこもった甘い吐息が、それらと共に私の全身が小刻みに震えている。私が震えているのか、彼女の震えが伝わっているのか。それとも、その両方が重なっているのか。もはや私たちには判別がつかなくなっていた。

 抱き合って泣いてからどれほど時間が経ったろうか。首筋に熱い吐息がかかる。その吐息には灼けるような想いを未だに乗せて。
「……マウスにちょっと早いけれどクリスマスプレゼントがあるんだ。受け取ってくれる?」
「もちろんよ」
 真っ赤に泣きはらした目を擦りながら、上ずった声で、承諾してくれた。
「じゃあ砲塔側面をこちらへ向けて」
 マウスは起き上がり黙って横を向く。私はカバンから筆とペンキを持ち出し彼女の砲塔へ愛しく撫でるように塗る。今までの思い出も、嬉しさも、悔しさも、切なさも、最後に懐かしさを込めて。
「できたよ」
 彼女を全身鏡の前に立たせて、後ろから手鏡で反射させる。
「これ……あなたのトレードマークのオールドレディじゃない!"赤いリボンに白くて大きなつば広帽子"のエンブレム……だってこれはあなたがあなたであることの証ではないの?もらってしまっても……」
「私にとってマウスは、もう半身のように大切な人だからね。喜んでくれたならうれしい」
「私をこれ以上、あなたなしでいられなくしないでほしいのだわ……」
 また泣き出してしまった。今度のはさっきのとは異なる嬉しい涙。
「もし向うの世界に戻ってしまっても、こちらの世界での記憶が無くなってしまっても、このエンブレムを見て繋ぎとめて。私も、きっと繋ぎとめる」
 昔から誰かが泣いていると落ち着かなかった。それが大切な人なら特にそうだ。私はこの先ずっとこうして彼女を心配しながら過ごすのだろうか。それで本当に幸せなのだろうか。この素晴らしい人を、私はもうすぐ失うのだ。
「このエンブレム、私の誇りだわ。記憶は失ってしまうかもしれないけれど、帰ったとしても誇りと思い出を"オールドレディ"に結び付けて絶対に忘れない。忘れてはやらないわ」
「……うん。私も戦場でマウスを探す。探しながらずっと待っているから。あなたが私に帰ってくるのをずっと待っているから」
 二人でまた抱き合い、誓う。
「もうすぐお別れで逢えなくなってしまうのに、すぐにまた逢えるような気もする」
 始まったときは別々の戦線に行ってしまったのに、終盤に敵のcap付近で再開できるような感覚。互いに顔を確認できなくとも、そこにいるのは伝わってくる。
「さよならは言わないわ。だってそれはお別れの挨拶だもの。だから、またねって……そう送り出すのよ」
 二人共泣きつかれて泥のように大きなベットで抱き合う。大切な陽だまりを失くさないように抱きしめる。柔らかくて温かくて、触れている肌が熱を帯びている。体温を肌で感じながら、マウスの手が私の頬を撫でる。今までのことを走馬灯のように思い出しながら、安心して意識は眠りに落ちていった。

 風に靡いて揺れているカーテンの隙間から朝日が私へ差し込む。瞼を閉じていても明るさが伝わってくる。冬の日差しは夏ほどぎらついていないので、ほんのりと優しい。ゆっくりと体を起こし、マウスを起こそうと横を見たが、ベットはもぬけの殻だった。どこかへ出かけた後なのか、それなら私のことも起こしてくれればいいのに。
 まさかと胸騒ぎと悪い予感が思考をよぎる。辺りを見たところ着替えた様子はない。着替えずにどこかへ出かけたならすぐに帰ってくるはずだ。私は、音の消えた部屋で心をざわつかせながら待つことにした。
 一人で部屋にいると3分が15分のように長く感じられる。冷たい張り詰めた空気が体を包む。凍える指に息を吐きかけると、白く染まりまるで溜息と紛らう。今まで人と一緒にいた分、ひとりぼっちになるとなんだか自分が酷くみじめな存在になってしまったようで、寂しくて寒くて時間の感覚が分からなくなってしまって、布団に包まり過ぎるのを待つ。
 もうひと眠りしよう。起きた時には必ず帰ってきているはず。それまで眠るだけ。今までマウスが寝ていた方へ移動してタオルケットに包まれた。まだほんのりと温もりを持っていて、冬の寒さから救われた気分になる。その暖かさを握りしめながら早く帰ってくることを願い再び視界を閉じた。

 

308日目

 半年が経った。ついにマウスは部屋へ帰ってこなかった。あの日、彼女は元いた世界へ帰ってしまった。以来、彼女を探すためにTier10を彷徨っていたが、それらしい情報は得られず、彼女の欠落と好みでないtierの戦闘を繰り返すことが心身ともに辛く感じてしまった私は、再びIS-3に戻っていた。
 私の半年にも渡る長い夢は終わりを告げた。目が覚め一人に戻った空虚な現実の中で、彼女はもういないのだと今日も思い出す。戦場に出るたびにマウスを確認しに行くが、ことごとく私の知る彼女ではなかった。もしかしたらと期待して、違って、そのたびに落ち込んで……繰り返していたら頭がおかしくなってしまいそうで、最近は確認すらしなくなった。

 マウスがいなくなり、夢のような時間から醒めてちょうど半年。そういえば彼女と出会ったのも去年の梅雨の時期だった。あの時のように高湿度により空気が肌に滑りく。相変わらず嫌な季節だと悪態をついていると、戦闘開始の30カウントダウンが私のことを急かすように鳴る。
 マップはカレリア、447マッチのボトム。味方の10HTは何だろうかと視線を巡らせると、鋼鉄のドレスを纏い、報酬迷彩を塗り、三優等を砲身へ飾り、気高いマウスが堂々と立っていた。私の探しているマウスではないのは一目瞭然。だってあいつは車体に塗装なんて塗らずに素材の味を活かした無機質な灰色で、どこか抜けていてそれが彼女の魅力で、優等だって取れる程強くもなく、自分を取り繕うことすらしようとしない自堕落で不完全な奴で……今更ながらどうして私は、自分にとって重荷でしかない女を拾って、そんな彼女に惹かれていたのだろう。
 戦闘開始15秒前。去年と同じくセオリー通り南へ向かうのに、初期配置が北側に寄っていたので最後尾になる。貧乏くじ。
 戦闘が始まる。皆それぞれのポジションへ向かい始めている中、味方のマウスは微動だにしていない。戦闘前には立派に見えたマウスだったが、トラブルだろうか。どうせ通り道だ、ついでに声をかけて行こう。

「ねえ、戦闘はもう始まっているよ。いつまで寝ているんだ」
 車体を砲身で小突く。
「う゛あ゛……えぇ……」
 なんて声をあげるんだ。まるで……
「……車体が響くのだわ……祝福の鐘の音なのかしら!」
 砲塔横に"赤いリボンに白くて大きなつば広帽子"のエンブレム。私と彼女を繋ぐトレードマーク。
 じっと私を見つめて、ほとんど叫ぶように言う。
「あなた……私はあなたを知っているわ!あなたをよく知っているのだわ!」
 そう言われて、懐かしい声で泣きそうな嬉しさが胸を突き上げる。
 現実で見た彼女の笑顔は、夢で見ていたような不思議な既視感を覚えたが、「夢にまで見た」なんてそんな言葉がくすむぐらい輝っていた。